2022/08/03 16:50
一度は退部を決めた”元選手”が打席へ...見守った母は涙 コロナ禍で生まれた高校野球「もう一つの夏」
ホークス
2022/08/08 17:00
真夏の甲子園で高校生による熱戦が繰り広げられている。現在の3年生は入学直後からコロナ禍に翻弄(ほんろう)されてきた世代。満足に練習や試合ができない時間を過ごしながら、大舞台を目指し仲間と汗を流してきた。そんな3年生の中でレギュラーとしては活躍できなかった選手のため、福岡では地方大会の開幕前に指導者たちが企画した「もう一つの夏」が実現していた。
6月、夜間照明を備えた福岡市内のグラウンド。甲子園出場経験のある福岡大大濠と沖学園の野球部員たちが”真剣勝負” に臨んでいた。通常の公式戦ではベンチ入り人数は20人までだが、この日の選手たちの背番号は福岡大大濠が23番、沖学園は21番まで。全員が3年生で、1~9の1桁の番号を付けていたのはいわゆるレギュラーではない控えのメンバーたちだった。
「今の3年生はコロナ禍で入学も遅れたし、いろんな制約がある中で練習や試合をしてきた。完全燃焼できなかったかもしれない。控えの3年生のために私たち指導者で何かしてあげられないかと思い、話し合ってきました」
そう話すのはこの親善試合トーナメントを中心となって企画した春日・八塚昌章監督、そして筑陽学園・江口祐司監督(今夏限りで退任)だ。きっかけはコロナの影響で選手権大会(代表校を決める地方大会を含む)が中止となった2年前。福岡県高野連が独自の代替大会を行わないと発表したことを受けて、福岡市と周辺校の指導者たちが手作りの大会を企画したことだった。当時は最終的に県高野連の方針転換により代替大会が開催されたが、指導者の交流はその後も続いた。昨秋に甲子園出場経験の有無にかかわらず公立、私立の計9校で研修会と銘打った合同練習を実施。今年3月から何度も話し合いを重ね、同じ9校によるトーナメント実現にこぎつけた。
福岡大大濠と沖学園による1回戦。沖学園で最も大きい背番号「21」を付けていたマネジャーの山下寛也は元々は選手だった。仲間と同様に夢を抱き白球を追いかけていたものの、2年生の昨秋にマネジャーへ転向。その経緯にもコロナが影響していた。
「コロナウイルスにかかってしまって、野球をできない時間が長くなって、野球への熱が抜けてしまった。このままチームにいたらみんなに迷惑を掛けてしまうと思い、辞めようと思いました」
退部の決意を打ち明けた山下をチームメートが必死に説得した。「山P」と呼ばれるなど人望もあった大切な人材。悩んだが、マネジャーとして残りチームを支えることを決めた。その山下にとって数カ月ぶりに選手として臨む試合。出番が訪れたのは9点差の9回だ。出場機会をうかがっていた鬼塚佳幸監督は「どうしても1打席立たせてあげたかった」と先頭打者の代打で送り出した。
初球をフルスイングしてファウル。2球目もファウル。簡単に追い込まれながらも、冷静だった。ボール球を見極めてフルカウントに。7球目で四球を選び出塁するとベンチはこの日一番といってもいいほどの盛り上がりを見せた。一塁を踏んだ山下は代走を送られると、全力で走って仲間の待つベンチへ。その表情には充実感がにじんでいた。
前夜、背番号21をユニホームに縫い付けた母裕理子さんも息子の勇姿をしっかりと見届けた。「昨日の夜『お母さん、背番号付けて』って持ってきたんです。もしかしたら代打で出るかも…と」。少年野球の頃から一針一針に思いを込めてきた裕理子さんにとっても、おそらく最後になるであろう背番号の縫い付け。「私もそうだし、本人もまさか背番号をもらえるとは思っていなかったみたいでした。今まで大変なこともあリましたけど、こんな機会をいただけたのも本当に支えてくださった皆さんのおかげ。感謝しかありません。感無量です」と頬を伝う涙を拭った。
試合は山下の四球をきっかけに大量8点を奪って追い上げたが、わずかに届かずゲームセット。14ー15の1点差で惜敗した。それでも山下はすがすがしい表情で記念写真に納まった。
「最高の結果はヒットだったけど、最後は自分のスイングができた。チームのために出塁できて良かったです。最後に8点取った時は正直、ウルっとしました」
選手として区切りをつけた山下はその後の福岡大会では裏方として奮闘。チームは3回戦で敗退したものの「最高」と言い切る仲間たちとともに高校野球生活を締めくくった。
初めて企画したトーナメントを「俺たちの三年間」と名付けた春日・八塚監督は言う。
「みんな本当にいい顔をしていました。ここからさらに交流を深め、福岡の野球がレベルアップしていければと思います」
(TNC「福岡NEWSファイルCUBE」6日オンエア・YouTube「ももスポチャンネル」より/取材=山本泰明、岩井泰昭)
6月、夜間照明を備えた福岡市内のグラウンド。甲子園出場経験のある福岡大大濠と沖学園の野球部員たちが”真剣勝負” に臨んでいた。通常の公式戦ではベンチ入り人数は20人までだが、この日の選手たちの背番号は福岡大大濠が23番、沖学園は21番まで。全員が3年生で、1~9の1桁の番号を付けていたのはいわゆるレギュラーではない控えのメンバーたちだった。
「今の3年生はコロナ禍で入学も遅れたし、いろんな制約がある中で練習や試合をしてきた。完全燃焼できなかったかもしれない。控えの3年生のために私たち指導者で何かしてあげられないかと思い、話し合ってきました」
そう話すのはこの親善試合トーナメントを中心となって企画した春日・八塚昌章監督、そして筑陽学園・江口祐司監督(今夏限りで退任)だ。きっかけはコロナの影響で選手権大会(代表校を決める地方大会を含む)が中止となった2年前。福岡県高野連が独自の代替大会を行わないと発表したことを受けて、福岡市と周辺校の指導者たちが手作りの大会を企画したことだった。当時は最終的に県高野連の方針転換により代替大会が開催されたが、指導者の交流はその後も続いた。昨秋に甲子園出場経験の有無にかかわらず公立、私立の計9校で研修会と銘打った合同練習を実施。今年3月から何度も話し合いを重ね、同じ9校によるトーナメント実現にこぎつけた。
福岡大大濠と沖学園による1回戦。沖学園で最も大きい背番号「21」を付けていたマネジャーの山下寛也は元々は選手だった。仲間と同様に夢を抱き白球を追いかけていたものの、2年生の昨秋にマネジャーへ転向。その経緯にもコロナが影響していた。
「コロナウイルスにかかってしまって、野球をできない時間が長くなって、野球への熱が抜けてしまった。このままチームにいたらみんなに迷惑を掛けてしまうと思い、辞めようと思いました」
退部の決意を打ち明けた山下をチームメートが必死に説得した。「山P」と呼ばれるなど人望もあった大切な人材。悩んだが、マネジャーとして残りチームを支えることを決めた。その山下にとって数カ月ぶりに選手として臨む試合。出番が訪れたのは9点差の9回だ。出場機会をうかがっていた鬼塚佳幸監督は「どうしても1打席立たせてあげたかった」と先頭打者の代打で送り出した。
初球をフルスイングしてファウル。2球目もファウル。簡単に追い込まれながらも、冷静だった。ボール球を見極めてフルカウントに。7球目で四球を選び出塁するとベンチはこの日一番といってもいいほどの盛り上がりを見せた。一塁を踏んだ山下は代走を送られると、全力で走って仲間の待つベンチへ。その表情には充実感がにじんでいた。
前夜、背番号21をユニホームに縫い付けた母裕理子さんも息子の勇姿をしっかりと見届けた。「昨日の夜『お母さん、背番号付けて』って持ってきたんです。もしかしたら代打で出るかも…と」。少年野球の頃から一針一針に思いを込めてきた裕理子さんにとっても、おそらく最後になるであろう背番号の縫い付け。「私もそうだし、本人もまさか背番号をもらえるとは思っていなかったみたいでした。今まで大変なこともあリましたけど、こんな機会をいただけたのも本当に支えてくださった皆さんのおかげ。感謝しかありません。感無量です」と頬を伝う涙を拭った。
試合は山下の四球をきっかけに大量8点を奪って追い上げたが、わずかに届かずゲームセット。14ー15の1点差で惜敗した。それでも山下はすがすがしい表情で記念写真に納まった。
「最高の結果はヒットだったけど、最後は自分のスイングができた。チームのために出塁できて良かったです。最後に8点取った時は正直、ウルっとしました」
選手として区切りをつけた山下はその後の福岡大会では裏方として奮闘。チームは3回戦で敗退したものの「最高」と言い切る仲間たちとともに高校野球生活を締めくくった。
初めて企画したトーナメントを「俺たちの三年間」と名付けた春日・八塚監督は言う。
「みんな本当にいい顔をしていました。ここからさらに交流を深め、福岡の野球がレベルアップしていければと思います」
(TNC「福岡NEWSファイルCUBE」6日オンエア・YouTube「ももスポチャンネル」より/取材=山本泰明、岩井泰昭)
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